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[女帝][ネオン蝶][野望の群れ]莫大な作品量を誇るマンガ原作者-倉科遼先生

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マンガ原作者 倉科遼さん

第1回:マンガ原作者のお仕事

漫画に携わる職業は「漫画家」だけではありません。
当「マンガのお仕事」連載は、出版・携帯・学問・ウェブなど、様々な角度から漫画に携わる職業の第一線で活躍されている方々へインタビューすることで、「マンガの現在」を探っていく企画です。
その第1回のマンガ原作者編として、テレビドラマで放送された「女帝」をはじめ、莫大な作品量を誇る倉科遼先生にご登場いただきました。
連載中の作品も数多く、今最も注目されているクリエーターといっても過言ではない倉科先生の過密なお時間をぬって、ロングインタビューを敢行!
司敬名義時代の苦労や、倉科流作劇術について、「女帝」がうまれるまで、と貴重なお話をたっぷり伺ってきました。

マンガ原作者 倉科遼さん

倉科遼 プロフィール
1971年、マンガ家としてデビュー。バンカラ物を中心としたヒット作品を数多く輩出し、「野望の群れ」「会津おとこ賦」「昭和バンカラ派」等、ロングセラーを多数生み出す。特に「野望の群れ」は全28巻続いた超ロングヒット作品として有名。単行本化された作品は40点以上。倉科遼名義となってからは原作者として現在青年誌を中心に数多くの劇画原作を執筆している。 代表作の「女帝」をはじめ「ネオン蝶」など数多くの作品を執筆している。特に、「女帝」により劇画界に"ネオン街モノ" という新ジャンルを開拓した先駆者と言われている。

書籍紹介

火の国熊本に生まれ育った立花彩香は、普通の女子高生だった。しかし一人の男に裏切られたことが彼女の人生観を変えた。母を病で亡くし進学を断念した彼女は、水商売の世界に身を投じ、男社会への復讐を誓う。TVドラマ化も話題をよんだネオン劇画の傑作長編。

5時間で2本! 脅威の生産スピードのわけ

――以前何かの記事で拝見したのですが、倉科先生は規則正しく昼のうちにお仕事をされているというのは本当ですか?  

倉科先生:そのとおりですよ。きょうも(仕事場に)8時くらいに入ったのかな。それで13時までに2本原稿を書きましたから。13時からこのインタビューがあるでしょ。その後出版社が原稿を取りに来て、その後にも予定があります。だいたいいつもこのようなスケジュールですね。

――すごいですね。それはつまり、5時間で2本という事ですよね。  

シナリオはだいたい先に作っておきましたから、それを書き始めてしまえばだいたい1本描き終わるのに1時間半くらいですよ。あとはまあ、だいたいひな形を作ってますんでね。ストーリーをゼロから作るともうちょっとかかりますけれど、ほぼ一日2本のペースは守ってますね。

―― 一本で分量はいくらぐらいなんですか。

原稿用紙20枚くらいです。世間でね、倉科はこれだけ量産してるので、所詮何人もアシスタントを使って書かせてるんじゃないかなんて言われてますけれども、実際は一人で手書きで書いてます。ただ、担当編集者がブレーンとしての仕事をしてくれてはいます。

――なるほど。その点を詳しくお聞かせ願えますか?

資料を探してきてくれたり、それを読んでまとめるとかは、全部編集者がやってくれています。また、打ち合わせた内容を全部メモに起こして出してもらっています。何を話したか忘れちゃう恐れがありますんでね。
で、そこに担当編集として(ストーリーを)こうして欲しいとかの希望があったら書き加えておいてくださいと言っています。一週間くらいの間に、もしあるならアイデアを出してもらって、その打ち合わせメモに書き込んでくれていいよと。
編集者にも色々いて、箇条書きにしてくる人もいれば、まるでほとんど原作そのもののようにみっちり書いてくる人もいるんですよ。

――先生のように書きましたと(笑)?

そう。もしゼロから話が作れるなら、もうその編集者が倉科の代わりに原作を書ける(笑)。それくらいの奴もいますよ、本当に。みんな楽しんでいるんです。
マンガを作るっていうのは原作つきの場合、原作者・漫画家・編集者の三位一体でひとつの作品が出来るわけです。マンガ作りの独特な世界ですね。編集者、編集部サイドの、つまり雑誌側からの作品への希望がわりと入ってくるのもマンガです。編集者とも合同作業をしているんです。しかし、編集者は絵は描けません。編集者が作品作りの上でどこに関与するかと言えば、話作りなんですよね。
なので、僕は原作者として、編集者に出来る限り話作りをする上で、発言の場を与えましょうと考えています。そうすることによって編集者のアイデアがちゃんと活きるし、場合によっては自分が考えつかなかったアイデアを編集者が出してくれる場合もあるわけです。取材した内容とか情報とかをどう入れるかとかね。
そういう作業を毎週毎週やっています。
それが多分、倉科が作品を量産できる原因のひとつであって、まあ大きい力にはなってくれてますよね、このシステムは。編集者達は倉科が考え出したやり方と言ってくれてますけれども、それが大きい理由だと思います。

レールを敷けば、誰でも走れるが...

――倉科流作劇術の秘密がここに。

ストーリーをゼロから作るっていうのがもちろん一番大変なんですよ。ですからゼロの段階から作り出すのは自分の役目です。ただ、だいたいレールを敷けば誰でも走れるんですよね、ちょっと失礼な言い方ですけども。ゼロから作るのが原作者の一番大変な部分なんです。
編集の方もみんなある程度物書きを目指していたり、もちろん漫画を好きだからこの仕事をやってきてる訳だから、まあ自分なりにストーリーを作りますよね。ストーリーを作る能力はあるんですよ、みんな。
でも、発想の部分とかゼロから何かを生み出すということ、そこは難しいんです。そこはやはり作家の持っている視点だったり感性だったりが必要になってくるわけで。僕はよく編集者の書いてきてくれたアイデアを褒めるんですけどね、「おっ、今週はよくできてるね!」とかね。だけど彼らはみんな言いますね、何もないところからこれを書けって言われたらできないって。
そういうものなんですよ。もちろん、逆に僕が困っているとき、つまり上手く書けなくて50%位のものしかできなかったときとかに、編集者に見せると、それが70、80%のものになったりすることもあります。話を作る作業ってどうしても狭まった視点になりやすいんですけども、それを俯瞰で見る視点、客観的に見る視点をちゃんと作っていかないといいものは出来ないんです。
でもそれに迷ってしまうときとか客観的に見れなくなってしまうときとかって必ずあるんです。その時に編集者が必要なんです。そういう意味で彼らはアドバイザーであり良いブレーンなんですよ。で、じゃあそれを始めから一緒にやっちゃいましょうと。そういうやり方をしているんですよね。

――ははあ、なるほど。 

ところがですね、原作者も漫画家さんもそうなんですけれども、そういうのをいやがる人がいるんですよ。

――そういう人の方が多いのでは?

そうですね、多いと思います。つまり、作家というのは自意識がとても強い方々ですから、人の意見を入れるのがいやだとかできあがったものに対してとやかく言われるのがいやだってね。それが自分にはあまりないんですよね。

――え! そうなんですか。

「後出しジャンケン」をさせないために

「後出しじゃんけん」は嫌ですよ。打ち合わせもしないでおいて、後からとやかく言われるのは僕も嫌です。なので、きちんと打ち合わせをして、そこに希望があったりリテイクがあったりしたらそれを書いておいてくださいと。
失礼を承知で言うけど編集者っていうのは後出しじゃんけんなんですよ。自分としてはもう30年間そのやり方でやってきて、嫌で嫌でしょうがなかった。打ち合わせしても「適当にやっといてよ」っていわれて、じゃあこういう風にやらせてくださいよってできあがったものを出すと「うーん、ちょっと違うんじゃないかな」みたいにね。言われるんですよ。それは嫌なんです。結果主義なんですよね。そうじゃなくて始めから言ってくださいよと。きちっと打ち合わせをしてね。それが正しい作り方何じゃないかな。
僕の若い頃はそういうことをしない編集者にたくさん会いましたから。嫌な時期もたくさんありましたよ。とにかく後出しじゃんけんをされるのが嫌だったな。たとえば良くあるのが、打ち合わせで喫茶店とかで角突き合わせて2時間くらいしゃべるわけですよ。ああでもないこうでもないと。で、時間が来てしまって、編集者が「じゃあそんな感じで」って切り上げるわけです。そして「そんな感じで」作ったものを持って行くと「全然違うよ」っていわれるみたいな。
言葉って言うものはどんどん流れていってしまうものですからね。書き留めておかないとむなしく消えていってしまう。後、会話での打ち合わせ時にはお互いの了解のままにしゃべっているので、編集者と自分がイメージしていることが違うまま話が進んでしまうこともあるわけです。
なので、話がまとまったつもりで作って持って行ってみると全然違うということが起こるんです。それが嫌なのでとにかく一度それを文字にまとめようと。そういうことにしたんです。そうするとイメージだけだった編集者も、ぐっとストーリー作りに入ってくるんですよ。思い出したり考えたりして、メモを作るわけです。それが「書く」ということなんですね。
あと、昔は編集者の方が年上だったわけですが、今だと自分よりかなり若い編集者が担当になることが多いわけです。まるで親子みたいにね。そうなると、話しているだけでは意見が出てこなかったりするんですよね。意見言えよって言っても、なかなか若い子が自分に対して色々言えないわけですよ。しかし面と向かっては言えないけれど、時間を与えて手紙のように書いてもらえば出来るんじゃないかと。どういう風に書いてもいいよ、箇条書きでもいいし、シノプシスのようでもいい。それこそ原作のようにちゃんと書いてきてもいいんだぞっていうと、みんな書いてくるんですよ。原作風に。(笑)

――みんな書きたいんですね。

書きたいんですよ(笑)。表現するってのは人間の本能的な部分のひとつでしょ? その場が与えられるというのは彼らからすると自分の表現が採用されているっていう感じになるんです。やりがいを感じてもらえてるんじゃないかな。まあそれらの8割くらいは使えないんですけどね(笑)。

――そうですか(笑)。若い編集者とのつきあいというのはどうしているんですか、と聞こうと思っていたんですが、そういう風にされてるんですね。倉科先生はベテランの編集者と若い編集者と両方お付き合いされていると思うんですが...  

若い人の方がいいですね。

――そうなんですか!?

ベテランの人とももちろんつきあっていますけれどね。長いつきあいになればなるほどツーカーで話が出来るようにはなりますけども。今は若い人を担当につけられることが多くなりましたよね。新入社員をつけられることもありますよ。

――編集者を育ててくださいと?

そうです。若い子はよく勉強しますよ。ヤングジャンプの「夜王」の編集者は担当になってから随分成長したって社内で評価されたようですよ。本人にも倉科番になったからだって言ってもらえましたけどね。今は二人目の入社一年目の子がついてますけどね、彼ももの凄く勉強してきますよね。もちろんプレッシャーも凄く受けているとは思いますけど(笑)。

――そうでしょうね。

打ち合わせしてメモを出してきたときに、足らないところとかおかしいところとかを僕が指摘すると「すみません! すぐ直します!」なんてやりとりがあったり。まるで僕が編集者で彼が作家みたいですよ(笑)。
だけどそれが楽しくてしょうがない。他の作家さんはわかりませんけどね、そういう若い子に意見されたりリテイクを受けたりすることが嫌だって言う方が多いって聞きますよね。自分にはそれはないんです。作品が全てだから。
その作品を作るために、みんなで知恵を出し合ってクオリティを上げると言うことであれば、年の差なんて関係ないじゃないですか。とはいえゼロからラインを引くのは自分が責任持ってやりますけどね。その時にメモが出てるというのは楽なんですよ。

倉科遼、司敬時代を語る

――だから作られるのが速い訳なんですね。

自分はシナリオを作るのは速いですね。あまり唸って作る方じゃないんで。短距離ランナーみたいなものですかね。

――いやしかしそうは言っても、それは才能だと思うのですが。

うーん、どちらかというと経験でしょうね。ずっとマンガを描いてきて、色々なジャンル、色々なことを経験しましたからね。シナリオの法則が見えてくるんですよ。人によって違うとは思うんですけど、キャラクターがいてこれこれこういう話にしたいって思ったときに、だったらこうだっていう線ってあるじゃないですか。そういうものを蓄積しているんでしょうね。
あと、ひらめくのが速いというのは、これはまあ事実なんですよ。たとえば「嬢王」は20秒くらいで作った話なんですよ。

――ええーっ! 20秒!?

担当編集者と初めて会ったときに、食事をしながら話をしていたんですが、その時にその彼が「先生、K-1ってありますよね」って言ったんです。あれはリング上でのナンバーワンを決める訳なんだけど、じゃあキャバクラでのナンバーワンを決めるというのもK-1ですよねと。で、ああいいねえ、クイーンだね、Q-1だね、って話になって、んー......あ、出来た、と。
20秒くらいで細かいところまで全部出来ましたよ。まあそういう意味で良いインスパイアをもらえて、そこで物語を生み出すというようなそういう共同作業というのかな、そういうのが得意なんですよ。

――凄い話を聞かせていただきました。ありがとうございました。では次の質問を。司敬名義での作品、原作:倉科遼名義での作品ともにたくさんあるわけですが、司敬作品で一本、思い入れの深い作品をあげるとしたら何になりますか?

一本に絞るのは...むずかしいなあ...。司時代で言うと、司敬という名前を世に出させてもらった作品になるのかとも思ったんだけど、これ一本ということになるとやっぱり「野望の群れ」かな。
あれが司敬最後の作品で、この連載が終わったら司敬は引退するって宣言して描いていましたから。なかなか終われなくてね。10年くらい続いたんですよね。思い出深いね。何しろ今の自分の倉科遼の「遼」は野望の群れの主人公「遼介」からとった文字ですしね。自分の息子の名前も遼介ですから。

――これは納得です。最長作品ですしね。では「野望の群れ」を除くと?

やはり学ラン三部作(会津おとこ賦・武田みけん星・昭和バンカラ派)になるのかな。セールス的にもとても良かったと聞いてますし、司敬を印象づけた作品達でもありますから。この三部作でしょうね。
単発で実写ドラマ化された作品などもありますが、これらの作品がなければ今日の自分はいなかったと思ってます。あの頃は色々試行錯誤して苦しかった時代でしたね。良かったものもあるけど今だと恥ずかしいところも多い。司時代は自分が倉科になるまでの習作というか修業時代だったのかなと自分は見ています。

――倉科になって以降は?

倉科になってからは納得できる仕事をしていると思っています。だれも切りひらいていない地平を開拓しているという自負はありますよ。

――そうですね。倉科先生といえば「ネオン劇画の開祖」といわれるわけですが...。

もうそろそろネオン劇画はいいんじゃないかなと思ってますけどね(笑)。

「ネオン劇画」誕生物語

――ネオン劇画誕生のいきさつというのを教えていただけますか?

それはね、司時代の話なんですが、行き詰まっていたときがあったんですよ。35歳くらいの時にピークが来ているな、これを過ぎたら自分は終わりだなって覚悟していたんです。今までやってきたことがうけなくなってきて、売れるものを出さないともうダメだよって出版社からも言われてましたしね。

じゃあ売れるものって何だろうって考えて、本宮ひろ志さんの作品を見てそのとき学ランものを出したんですが、それが本意だったかというとそうでもあったんだけどそれだけじゃないっていう心の叫びもあったことは事実です。何か他にあるのかといえば、あるにはあったんですが、学ランものをとにかく売ろうとしてそれを描いていたわけですが、いつかそれも売れなくなるだろうという思いはありました。そしたらもうアシスタントをたくさん使うこともやめて、のんびり小さくやろうかなと。
当時司敬は日常の小さなドラマを描く才能があるなんていう評論を書かれたこともあったんですよ。自分でも正直いうとそういうのが得意だと思っていたんです。小さい日常のさりげないことをドラマにするっていうのが自分の得意分野だと。そういうのをやろうかなとずっと思ってはいたんですよ、司時代に。
で、売れなくなってきて、ようやくそういう小さな作品を描きたいって言ったら、どこも描かせてくれなかった。おまえ何いってんの? っていう感じですよ。おまえは売ってなんぼのものしかできない、それが売れなくなった今、おまえはもう終わりだって言われたんですね。あれは嫌だったなあ。。。ただ、自分で自分にレッテルを貼って稼いできたわけで、それを今から地味な作品をやらせてくださいといってもどこの出版社ものってこないんだということが痛切にわかったんです。そこであがきはじめて。

――といいますと?

マンガを描いているときは、正直いって他の作家のマンガを読んでそこからインスパイアされることが多かったんですね。もちろん映画や小説などからもです。
つまり、ネタの2次3次使用というのかな、人の持ってきたネタを使うことが普通だったんです。もちろんコピーはしません。ただ、マンガばかり描いているから外にも出ないし、そういうところからネタを持ってきて作っていたわけですよ。しかしそういう他人のフィルターを通したものを描いていてはもうヒット作は描けないと思ったんです。
そこからの脱却をするためにあがいた訳なんですが、そんな誰も目をつけていないネタなんてものがそうそう簡単に見つかるわけがない。ただひとつだけ確かなのは、もう閉じこもっていてはダメだ、寺山修司ではないけど「書を捨て街へ出よう」と考えて、とにかく原稿描きの間になんとか休みを取って、カメラを持って日本中を回ってみようと思ったんです。で、日本中ぶらぶらと旅して回ってみたら、あることに気づいたんです。

――おお!?

日本中どこに行っても飲み屋があるな、と。ほんとにどこに行っても繁華街ってありますよね。
で、マンガのジャンルっていろいろあるけど、たとえば競馬もパチンコも裾野が広いジャンルな訳ですが、「酒マンガ」ってアリなんじゃないかと。あるジャンルに対して興味のある人間が多ければ多いほど受け入れられやすいとするならば、麻雀やパチンコよりも「酒と女」だろうと。ネオン街マンガなんじゃないかってひらめいたんですよ。
銀座なんかにも行くようになって、いろいろ経験するうちに「女帝」の世界ができあがってきたんです。ただ、まだその時点では完全に出来ていたわけでもなく、まだ司敬のマンガを描くことに追われていたんですが、その人気も下降期で。

人間、何がきっかけで変わるのかなんて、誰にもわからない

その上その時にはそういうマンガを描けるとは思っていなかったんですよ。「野望の群れ」の連載も続いていましたし、それが終わったらマンガを引退しようと思ってましたからね。で、そのころいくつかの会社を経営していたんですが、マンガをやめたらそっちで食っていこうと考えていたんです。

――なるほど。

それで会社経営者としていろいろ異業種の方々と会って営業したりするわけなんですが、そうやって人と会って話していると、ひらめくんですよ。ストーリーが。
マンガはやめようと思ってやっている仕事なのに、やればやるほどマンガのストーリーがひらめく。あれは残酷でしたね...。しかしそれこそがストーリーを作るということだったんですね。さっき話した「閉じこもっていないで外に出てネタを探す」ということそのものだったんですよ。そこに気づいたときに、倉科遼が目覚めたんじゃないかな。
そして「女帝」の世界が出来はじめたんです。しかし、それは司敬ではダメだったんです。自分の絵ではうまくいかないことが自分でわかってしまったんですね。

――そこまでもイメージできたんですか。

できちゃったんですね。つらかったですよ。司敬は女が上手く描けないって自分でわかっちゃっていた。しかしこの作品を描くには女が美しくなくてはダメだ。もう一回線から自分の絵を直すか。それも無理だった。
そんなとき、編集者が「おまえマンガやめてどうするの」って聞いてきたんです。会社を始めていることはもう言っていたんで、会社やりますみたいなことは言ったんですが、「何でそんなにマンガやめたいの?」と聞かれてぽろっと「女が描きたいんです。でも自分の絵ではダメなんです」って言ったんです。小説でも書こうかなみたいに話したんですよ。やれるはず無いだろうなとも思ったんですが、とにかくマンガをやめる理由が欲しかったというのもあった。かっこつけの逃げだったのかもしれない。
そしたらその編集者に「じゃあ、原作書いてみろよ」って言われたんです。絵の描き手は誰がいいんだといわれて「和気一作さん」というのは即答でした。そしたらその編集者が和気さんを口説いてくれて、一本書いたらリテイクも無しにすんなり通り、和気さんも描いてくれて。それが「悪女の鑑」っていうシリーズの一発目だったんだけど、それを書き始めたんです。「野望の群れ」の連載をしながら。

――その時はまだ「野望の群れ」は終わってなかったんですね。

終わっていませんでした。「野望の群れ」を描きながら会社の経営もして、土日に原作書いて...。そうしているうちに「悪女の鑑」シリーズがいい評判を得るようになって、じゃあ本連載を一本書けということになり、その時に初めて「ホステスのサクセスストーリーをやりたいんだ」と言ってみたんです。「女帝」のプロットがそこで生まれました。

――今となっては、倉科遼の仕事には御自身で納得されておられるわけですよね。

まあ、天職だったんでしょうね。原作がね。ただ人生の転機だったというのもありましたね。マンガをやめようと思って、その他多くの出来事が重なって、もう自分は倉科遼で行くしかないと思ったんです。

――ドラマで「女帝」が始まりましたが、ドラマに関して一言お願いします。

ドラマに関しては特に何もないです。注文も一切していません。メディアが違う作品ですので、もうこれはテレビの人たちの作品ですから、映像は映像の世界で、その持ち味を生かしてくれればいいなと思っています。
もちろんドラマが成功してくれればいいなとは思ってますよ。それがマンガのセールスに跳ね返ってくれれば(笑)。そこだけを期待しています。是非ドラマを見ていいなと思ったら、マンガ版、電子書籍版の「女帝」をご覧になってください。



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